東大生のプライドがどうなっているか構造を解説しよう

皆さんは東大生についてどのようなイメージをお持ちだろうか。

 

人によってはその学歴を鼻にかけているプライドが高い人だったり、或いは奢ることのない謙虚な人であるかもしれない。

 

現実は、東大生はその多くが努力さえすれば入学することなど難しくないと思っており実際そう言っている人が多い(私もその1人)が、その実自分たちは他の者とはどこか違うと思い込んでいるクソきめえ性質を持っている。その癖、他人のプライドには人一倍嫌悪の視線を向け、(表面上の)自己肯定感は低ければ低いほど良しとされるクソきめえ文化まである。

 

一見相反するこの2つの性質はいかにして共存するのか、そのメカニズムについて少し考えてみたい。

 

 

まず、受験という経験が彼ら彼女ら(まあほとんどが「彼ら」ではあるが)をこのような生物にしてしまったであろうことは間違いない。要因がそれだけと断定することはできないがかなり大きい。この儀式により東大生とそれ以外の区別がつけられることになり、以降彼らの中に何かしらの「自我」が芽生えることとなる。

 

大前提として、東大は努力すれば入れるだとか、いいや才能だとか親の経済力だとか親からの理解だとかやれ文化資本だとか地域格差だとかそんなTwitterの東大生たちが大好きで堪らず既に人口に膾炙し尽くされているような議論は置いておく。

 

特に受験のような因果関係が不明瞭な概念に対して1つの原因を見出すことそのものがナンセンスだ。確かに先述の努力、才能、生まれといったどれもが恐らく要因としては大きいがどれがクリティカルだとか決定できるものでもないしそれ以上に交絡要因が多すぎる。

 

 

しかし少なくとも、本人の努力や才能、生まれ、それら全てが概ね平均以上であると結論づけることぐらいはできるだろう。もちろん中には圧倒的に貧しい家庭に生まれ本人の弛まぬ努力の末に勝ち取った人もいれば、とんでもなく豊かな家庭に生まれた上に天賦の才で簡単に勝ち取った人もいよう。

 

私自身も決して生まれは良くなかったのでそこら辺の恵まれ家庭に生まれ育った量産型東大生どもと一緒にするなという気持ちが皆目無いかと言われれば嘘になるが、そんな私でも親の理解が無ければ受験することすら叶わなかったという点では恵まれていたと言わざるを得ないであろう。どうせ、何を言おうがその環境を享受することすらできない謎の存在を仮定し、そいつに下方向へのマウントを取らされて終わるのだ。無駄である

 

そして大抵、この手の議論は「まあ皆何かしらの点で恵まれてるし努力してきたよね(笑)」みたいなことを言って事態の収束を図ろうとする意味不明な仲裁者(お前は誰だよ)の登場によって幕を下ろす。このようなことが年に何回も起こっているのが東大生のTwitterという地獄である。

 

私怨というか常日頃SNSで浴びているキモ成分のせいでかなり話が逸れてしまった。「議論は置いておく」と数行前に書いていたのに結局長々と書き連ねてしまったのは私もそのクソきめえ東大生の端くれだからか。

 

 

まず、東大生云々以前に人の性として、ある達成した物事に対して自身の能力のおかげであるとプライドを持つ傾向がある。ここでいう自身の能力とは先述で言うところの内的要因、つまりその人自身の努力や才能といったものであり、生まれといった外的要因のことではないとする。そこを完全に排除することは多くの人にとって難しい。

 

東大生とて例外に漏れず、やはり多くの人がその身分を手に入れた偉業を自分の能力のおかげだと思いたがる。その点に関してはプライドが高くなってしまうのも無理がないだろう。

 

ここで繰り返し言っておくが、東大生の多くは決して東大に入ることを難しいことだと思っていない。何なら自分ができるぐらいだし多くの人だってそれぐらいできるでしょぐらいに本気で思っている。これは本当だ。私もそう思っているぐらいだ。

 

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しかし、その本音と世間の評価には巨大なギャップがある。現実として世間の圧倒的マジョリティの東大の評価は目指すことすらおこがましい超難関なのだ。そしてそういう評価であることも知っているし、知らず知らずのうちに内面化しているケースもある。

 

これらを総合すると、「別に東大に入ることは難しくはないし自分が凄いわけでもないけど、どうやら世間的には凄いらしい」になるのである。なんだかかなり投げやりにまとめてしまったため暴論になってしまったが、まあ当たらずとも遠からずといったところだろう。

 

結論1. 多くの東大生は別に東大に入ることは凄いことだとは思っていない一方で世間的には凄いことだと思われており、そのことに自覚的ではある。また、自助努力で得たからといってそれが凄いというわけでもない。

 

ふと思い出したが、「東大生は所属大学を聞かれた際に「一応東大生です」と答える傾向があるが、

 

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冒頭の「一応」は他の優秀な東大生と比べて劣等感を抱いているためその保険である」といった要旨のツイートが度々バズっては視界に入る。もう10回以上は見た。見飽きた。この文章を読んだ人は金輪際このようなツイートをしないでください。お願いします。

 

このエピソードからわかるように、東大生の多くは内部の優秀な東大生に対して大きな劣等感を抱いていることが多い。

 

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ここで東大生のTwitterを見てみる「つよつよ」「はいプロ」「いいえ、よわよわ」「よわよわで辛い・・・」「プロになりたい・・・」「よわよわでごめんなさい・・・」

 

目を疑うような身の毛もよだつこのようなキモいやり取りが大学生になっても尚彼らの間で行われている。「つよつよ」「プロ」「よわよわ」といったクソキモい単語を常用していることが既に気持ち悪いが、それは個人的な好悪の問題なので置いておこう。

 

 

とにかく、はっきり言ってこのようなプライドが低いことを発表し続けることが美徳とされている風潮が大嫌いだ。その領域でのそれ以上の存在が己の存在価値を脅かす脅威であるという、学という物差しのみで評価されてきた彼らにとっては仕方のないことなのかもしれない。ちなみにこれが行き過ぎた一部のアカデミア至上主義者は学以外で評価されている人に対して異様に厳しい評価を下したり他の価値観を「ジャッジ」し始める傾向がある。

 

結論2. 内部の人間に対しては少なくとも謙虚なポーズは取っている、というより取らざるを得ない。

 

 

結論1と2から冒頭のことが言えよう。東大生のプライドは、外部向けと内部向けでその構造が根本的に異なるのだ。

 

別に東大生であることなど凄くないと宣う(し、実際にそう思っている)くせにたまに現れる東大生をバッシングする外部の人間に対しては目くじらを立ててブチ切れる現象もこれで説明がつく。

 

東大生にありがちなプライドの構造について書くつもりが悪口メインになってしまった。

 

最後に言っておくが、これらの論考は「東大生の多くがそういう傾向にあるだろう」ということを述べたものであり、決して全ての東大生がそうであると断言したわけではない。この記事の一部を切り取ったスクショを貼り「これ違うだろwww」みたいな君たちが大好きなやり口でバッシングを集め出したりしないことを願ってやまない

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