ぼくは「受験は団体戦」という言葉がタヒぬほど嫌いだ。
高校時代の進路集会で初めてこの言葉を聞いた瞬間にも違和感を覚えたのだから、「受験は団体戦」の6文字に対する嫌悪感は確かなものだと思っている。
ひょっとすると、ぼく自身が若干の(いや実際はかなりの)社会不適合者で、常に1人で黙々と勉強するタイプだからこの言葉が嫌いなだけかもしれないが、それを除いても以下2つの理由で「受験は団体戦」という言葉を忌み嫌っている。
その理由とは端的に、
② 「受験は団体戦」という言葉は勝者のみ実感できるから
の2つだ。
これだけだとよく分からないと思うので、順に説明していこう。
教員にとって「受験は団体戦」なだけ
まず、みなさんが「受験は団体戦」という言葉を聞いたのは、学校の進路集会ではないだろうか?筆者の場合はそうだった。
ふつうに考えて明らかに個人プレーである受験という世界で、わざわざ「団体戦」などという単語が生まれてくるのはおかしい。何らかの力が働いてこの言葉が生まれてきたとしか思えない。
では、一体なぜ学校では「受験は団体戦」と声高に主張する教員が多いのだろうか?
合格実績というノルマ
中高生にはまだ理解しがたいかもしれないが、ふつう社会で働く大人たちにはノルマというものがある。
一般に、進学校のような教育現場でのノルマは毎年の合格実績だ。「祝!東京大学3名。早稲田大学20名!」みたいなアレ。
その年の進路担当になった教員たちにとって、この合格実績というノルマは必ず達成しなければならない。いや、達成というかむしろ更新していく必要がある。
ゆえに、教員は生徒たちのモチベを上げなんとか一生懸命お勉強してもらうためにも、進路集会という場を借りて「受験は団体戦」演説を行うのである。
これが教員に「受験は団体戦」と主張する人が多い理由である。
受験は個人戦
上でも少し触れたが、受験はノルマがある教員にとって団体戦かもしれないけれど、受験生目線でみると完全に個人戦である。
その理由は、入試本番まで勉強するのも個人だし、実際に試験会場に行って試験を受けるのも個人だからである。そこに他者が介入する余地はない。
受験が個人戦であると考える理由を以下でもう少し詳細に話していこう。
「受験は団体戦」を実感できるのは勝者のみ
ぼくが「受験は団体戦」という言葉を忌み嫌っている1番の理由は、この言葉が勝者のみ使うことが許される綺麗事だからである。
どういうことかと言うと、こんな感じ↓
A子「キャー!東大受かった!B子は?え!!!B子も受かったの?嬉しい!一緒に頑張ったもんね!やっぱり受験は団体戦だね!」
・・・
今度は逆パターン。
A子「キャー!東大受かった!B子は?・・・あ、そうなの・・・でも、一生懸命頑張ったよね・・・」
お分かり頂けただろうか?
上の例では登場人物がA子とB子の2人しかいなかったが、現実世界ではすくなくとも5、6人でつるむことが多いので、「受験は団体戦」という綺麗事は、よほどKYでない限り、同期が全員受かった場合にしか存在し得ない。誰か1人が残念にも不合格だった場合は決して使ってはならないのだ。
しかし、ある集団において同期が全員受かるなんてことは滅多にないので、「受験は団体戦」というキザな単語が登場する余地はない。
この話からも分かるように「受験は団体戦」という言葉はあまりにも(教員側に)都合が良すぎて無慈悲なものである。
不幸にもこの言葉を信じて頑張ってきた受験生は、自身が残念な結果に散った瞬間に、悟る。
「あ、受験は個人戦だったんだ」
自分が落ちた場合は当然に誰かの合格を祝える気にはなれず、仮に自分が受かった場合でも周りの様子を見ながらこっそり祝福しなければならない。
いったい、これのどこが「団体戦」なのだろうか?
甚だ都合が良すぎる。
「受験は団体戦」のぼくなりの解釈
とはいえ、ぼくの中で「受験は団体戦」の自分なりの解釈があるので、せっかくだからここで共有したいと思う。
ぼくが考える「団体戦」の団体とは家族や親族である。
中高生のきみたちはまだ気づかないかもしれないが、そもそも受験勉強ができているのは自身の力ではなくて家族の力に依るところが大きい。
たしかに、勉強を実際にするのはきみたち中高生かもしれないが、その環境を提供してくれている人、つまりきみたちが何不自由なく受験勉強に集中できるよう衣食住を用意してくれているのは、他でもなく家族だ。
学生という身分だとどうしても保護されるのが当たり前に感じるだろうが、ぼくのように実家から独立して1人暮らしを始めると気づくことがある。
「ああ、たくさん愛されて守られて育ってきたんだなあ」
よく考えてみて欲しい。
あなたが勉強好きな子になるように(実際好きかどうかは置いておく)本を読み聞かせたり、教育用玩具を買い与えたり、もしくは水泳教室やピアノ教室に通わせたりと、ありとあらゆる工夫を凝らして物心つくまで育ててくれたのは誰だろうか?
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また、物心ついて自律的に勉強をし始めたきみたちが集中して勉強できるように、衣食住を提供するだけでなく、(家庭によっては)学習塾に通わせてくれたのは誰だろうか?
きみたちの家族ではあるまいか?
この記事を読んでいる人の中にはひょっとすると両親がおらず、施設などで育った子もいるかもしれないが、それでも施設の人(彼らにとっては家族)の愛を受けて立派に育ってきたことだろう。施設出身で受験勉強をできているのだから相当恵まれている。
このように、きみたちが受験勉強をできているのは決して個人の力によるものではないのだ。
ぼくは教員が使う「受験は団体戦」という言葉は嫌いだが、こうした解釈の「受験は団体戦」という使われ方なら喜んで普及させたいと思っている。
受験勉強をしているとどうしても「自分」が頑張っているように思えてしまうが、これから大人に近づく受験生のきみたちにはどうかこうした考え方・視点をもっておいてもらいたい。
まとめ
最後はだいぶ自分語りになってしまったが、以上のことを簡単にまとめると、
・教員が「受験が団体戦」と声高に主張するのはノルマを達成したいから
・ライバルや同期に焦点を当てると受験は完全な個人戦
・受験勉強を家族が支えてくれているという意味で「受験は団体戦」かもしれない
というふうになる。
もちろん、この記事が正解ではないので、他にもいろんな人の意見を参考に自分なりの「受験は団体戦」を考えてもらいたい。
数ある記事の中から「東大勉強図鑑」を選んでくれて本当にありがとう。